大会報告・リザルト
長野マラソン
- 第24回 2022年(令和4年)
- 第23回 2021年(令和3年) 中止
- 第22回 2020年(令和2年) 中止
- 第21回 2019年(平成31年)
- 第20回記念 2018年(平成30年)
- 第19回 2017年(平成29年)
- 第18回 2016年(平成28年)
- 第17回 2015年(平成27年)
- 第16回 2014年(平成26年)
- 第15回 2013年(平成25年)
- 第14回 2012年(平成24年)
- 第12回 2010年(平成22年)
- 第11回 2009年(平成21年)
- 第10回 2008年(平成20年)
- 第9回 2007年(平成19年)
- 第8回 2006年(平成18年)
- 第7回 2005年(平成17年)
- 第6回 2004年(平成16年)
- 第5回 2003年(平成15年)
- 第4回 2002年(平成14年)
- 第3回 2001年(平成13年)
- 第2回 2000年(平成12年)
- 第1回 1999年(平成11年)
※第13回大会は東日本大震災及び長野県北部地震などの影響により中止
※第23回、第22回大会は新型コロナウイルス感染拡大防止のため中止
信毎マラソン
- 第31回~第41回
第41回(1998年/平成10年)、第40回(1997年/平成9年)、第39回(1996年/平成8年)、第38回(1995年/平成7年)、第37回(1994年/平成6年)、第36回(1993年/平成5年)、第35回(1992年/平成4年)、第34回(1991年/平成3年)、第33回(1990年/平成2年)、第32回(1989年/平成元年)、第31回(1988年/昭和63年) - 第21回~第30回
第30回(1987年/昭和62年)、第29回(1986年/昭和61年)、第28回(1985年/昭和60年)、第27回(1984年/昭和59年)、第26回(1983年/昭和58年)、第25回(1982年/昭和57年)、第24回(1981年/昭和56年)、第23回(1980年/昭和55年)、第22回(1979年/昭和54年)、第21回(1978年/昭和53年) - 第11回~第20回
第20回(1977年/昭和52年)、第19回(1976年/昭和51年)、第18回(1975年/昭和50年)、第17回(1974年/昭和49年)、第16回(1973年/昭和48年)、第15回(1972年/昭和47年)、第14回(1971年/昭和46年)、第13回(1970年/昭和45年)、第12回(1969年/昭和44年)、第11回(1968年/昭和43年) - 第1回~第10回
第10回(1967年/昭和42年)、第9回(1966年/昭和41年)、第8回(1965年/昭和40年)、第7回(1964年/昭和39年)、第6回(1963年/昭和38年)、第5回(1962年/昭和37年)、第4回(1961年/昭和36年)、第3回(1960年/昭和35年)、第2回(1959年/昭和34年)、第1回(1958年/昭和33年)
「信毎マラソン」から「長野マラソン」へ
第21回信毎マラソンと同日に行われた第2回30km ロードレースには宗兄弟(旭化成)らが出場
1958年4月20日。長野オリンピック記念長野マラソンの母体となった「信毎マラソン」は、信濃毎日新聞社創立85周年記念事業として、長野陸上競技協会とスタートさせた。
第1回は82人にすぎなかった大会は、以後年々定着し、300人を超える選手が参加するまでになった。厳しさを増す交通事情からコースは何度か変更されたが、当初から「新人の登竜門」として知られ、第10回大会から日本陸上競技連盟の後援レースに指定された。併設された高校10キロ(12〜19回)、30キロ(20〜30回)を含め、大会にはオリンピックや国際大会に出場した選手も数多く参加。さらにこれら大会から世界や日本のトップランナーに成長していった選手も多い。
信毎マラソンは1998年3月の第41回大会で幕を閉じたが、その年開かれた長野冬季オリンピックの崇高な精神を受け継いでいこうと、長野オリンピック記念と銘打った長野マラソンとして生まれ変わった。